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嫌われる勇気 


嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え
(2013/12/13)
岸見 一郎、古賀 史健 他

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オススメ度 ★★★★★


今までこれほどアドラー心理学について分かりやすく書かれた図書があっただろうか。
アドラー心理学は同時代に生きていたフロイトやユングほど有名ではなく、興味があってもなかなか勉強する機会が今まで無かったが、本書を読めばアドラー心理学を非常によく理解できるだろう。

アドラー心理学は臨床の中で活かせる考え方が豊富に含まれている。そのため臨床家として実践している方々には多くのヒントを得る機会になるだろう。
それだけでなく、日常で生活する際にも生きやすくさせてくれるヒントも多く含まれているため、一般の方が読んでも面白いと思う。

是非、皆さんに一読を進めたい。


なお、管理人は先日、本書をまとめてある研究会で発表する機会を得た。
その際に使用したレジュメを記載する。興味ある方がいらしたら是非観ていただきたい。




「嫌われる勇気」を読んで
「課題の分離」が入口で「共同体感覚」がゴールとは?
~自分をどう勇気づけるか~
 
あらまし
出会い
「かつて1000年の都と謳われた古都のはずれに、世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる、と説く哲学者が住んでいた。納得いかない青年は、哲学者のもとを訪ね、その真意を問いただそうとしていた。悩みの多き彼の目には、世界は矛盾に満ちた混沌としか映らず、ましてや幸福などありえなかった。」という文章から始まる本書は、その青年とアドラー心理学を一つの哲学と定める哲学者との会話形式で論が展開されていく。
青年は自分の性格、容姿、あらゆる自分のことが好きではなかった。そして彼はそれは生れついた気質であり、変わらないと思っていた。変わらないならずっと自分は不幸だと考えていた。そのため、青年はその哲学者のことがとても信じられず、論駁してやろうと目論んでいた。ところが、哲学者は「大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである」と述べ、原因論を否定し、目的論を説く。そして、「あなたはあなたのライフスタイルを、自ら選んだのです」と、何らかの不幸でいたい目的があるからこそ、今のままでいるのだと見立てる。実際、彼は自分を嫌うことで対人関係を避け、自分が他人に否定されることを回避していたことを認めた。
哲学者はさらに、「あなたが不幸なのは、過去や環境のせいではありません。ましてや能力が足りないのでもない。あなたには、ただ、“勇気”が足りない」として、変わりたいのなら、いまここで勇気を出すことが必要である、と論を展開する。哲学者曰く、勇気がでないのは、世界を複雑にとらえているからということであった。本来、世界はシンプルなのだが、主観の世界で生きている人間は世界を複雑に解釈してしまうのである。この解釈が今の自分を変え、新しいライフスタイルを選択するための一歩を踏み出す勇気を挫く。
 

勇気が挫かれるとどうなるか
勇気が挫かれた状態は劣等感を呼び起こす。ただし、劣等感そのものは何ら問題のあるものではない。健康で正常な努力と成長への刺激となることもある。しかし劣等感を「Aであるから、Bできない」といった、自分への言い訳として使うと、それは劣等コンプレックスとなる。
これら、言い訳としての劣等感(劣等コンプレックス)や悩みはすべて対人関係から生じる。自分と他者を比べてしまい、その差異を劣っていると解釈するからである。しかし、哲学者はこういう。「「人々は私の仲間なのだ」と実感できていれば、世界の見え方は全く違ったものになります」と。他者を敵ではなく、味方と考える、つまり「人間として対等」な存在と考えるとそれは「競争」でなくなり、勝ち負けも生まれないため、劣等コンプレックスは抱かれないからである。
では、どうして他者を敵だと見なしてしまうのか?それに対しての哲学者の答えは「「人生の課題」から逃げているせいです」であった。人間は必ず自立する時がやってくる。自立するには何かしらの仕事に従事しなければならない(仕事の課題)。さらに、成長していく過程でさまざまな交友関係を持つことになる(交友の課題)。誰かと恋愛関係を結び、それが結婚にまでつながることもあるだろう(愛の課題)。このように、ひとりの個人が社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係がある。これを「人生の課題」という。人生の課題に取り組むことは大変に厳しい。なぜなら、自分の劣等コンプレックスが刺激されてしまうからである。だから、勇気の挫かれた者は他人を「敵」と見なし、対人関係から退くことで人生の課題から逃れようとするのだ。しかし、そのままでは一向に劣等コンプレックスを優越することが出来ない。そのため、人生の課題から回避することをアドラーは「人生の嘘」と呼んだ。
なお、人生の課題と向き合うことで①自立すること、②社会と調和してくらせること、という二つの行動面の目標を達成することができ、また❶わたしには能力がある、という意識、❷人々は私の仲間である、という意識をもつ、という心理面での目標を達成することができるとされている。
 

勇気と自由
では、どうすれば勇気を得ることが出来るのか。そのためにはまず「自由」について論じあわねばならないと哲学者は言う。自由を得るためには「承認欲求」を求めることを否定するところから始めなければならない。なぜなら、「あの人に認めてもらいたい」という規範のもと行動をするとしたら、「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」「罰する人がいなければ、不適切な行動もとる」という、誤ったライフスタイルを獲得してしまうことにつながるからである。これは明らかに不自由である。我々は「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだ。「他者からの承認を求め、他者からの評価ばかりを気にしていると、最終的には他者の人生を生きることになります」とかなり厳しい哲学者の言葉も青年にのしかかる。青年も負けじと「人間を孤立へと追いやり、対立へと導く、唾棄すべき危険思想だ!不信感と猜疑心をいたずらに掻き立てるだけの、悪魔的教唆だ!」と声を荒げるが、それでもなお哲学者は主張を変えない。確かに、青年の気持ちも分からないでもない。まるでわがまま・傍若無人に生きることを肯定するかのような主張にも思えるからである。しかし、真意はそうではない。そのことを理解するには「課題の分離」という考え方を知る必要がある。
 

課題の分離
「課題の分離」とは「これは誰の課題なのか?という視点から自分の課題と他者の課題とを分離していく考え方のこと」である。例えば、子供が宿題するかしないかはあくまでもその子供の課題である。それゆえ、親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して土足で踏み込むような行為となる。およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むことによって引き起こされる。「あなたのため」という言葉の背景に「わたしのため」という欺瞞的なメッセージを受け取るからこそ、反発を招くのである。しかし、人は「他者の期待を満たすために生きているのではない」。他者には他者の人生があり、課題がある。他者の課題までも抱え込んでしまうと自分の人生は重く苦しいものになってしまう。他者が自分の人生をどう評価するのか、これは他者の課題であって自分にはどうにも出来ない話である。このような他者の課題は切り捨てる。それが人生をシンプルにする第一歩となる。要するに、課題の分離とは「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない」ことであると言える。確かに、これが理解でき、実践できれば、対人関係は一気に「自由」になる。
 

嫌われる勇気
しかし、この「自由」を行使するには他者の評価を気にしない、他者から承認されないかもしれない、という大変苦しいコストを支払わなければならない。時に人に嫌われることもあるかもしれない。しかし自分の生き方を貫くならばそれを恐れていてはいけない。つまり「自由とは、他者から嫌われることである」のである。「幸せになる勇気には、「嫌われ勇気」も含まれます」という哲学者に青年は驚きを禁じ得ない。
 
Qここまでが次から検討したいと思っていることへのお膳立てです。ここまでのところで何か疑問・質問があればお願いします。
 
 

ここからが検討したいこと
課題の分離は自己チューへの道?
課題の分離。確かに対人関係の荷物を軽くする。青年は一旦は納得する。しかし、冷静な頭で考えると課題の分離に疑問をもつようになっていった。課題の分離、それはすなわち他者とのつながりを失うことなのではないか?「わたしはわたし、あなたはあなた」と境界線を引いていくような発想となり得るからである。極めて自己中心的な、誤った個人主義としか思えない…!
この青年の疑問に対し、哲学者の回答は「課題を分離することは、対人関係の出発点です」であった。そしてそのゴールとは「共同体感覚」なのだという。
共同体感覚は、「自己への執着」を「他者への関心」に切り替えていくことで培われて行く。ここで言う「自己への執着」とは「自己中心的」と言い換えることができることであり、課題の分離が出来ておらず、承認欲求にとらわれている状態のことも含む。なぜなら、「承認欲求」とは他者はどれだけ自分に注目し、自分の事をどう評価しているのかという基準から他者を見ることだからである。それは他者を見ているようでいて、その実、「わたし」にしか関心がない。これこそまさに「自己中心的」な視点である。
「でも」、と青年は反論する。「主人公は間違いなく「わたし」なのですよ?」。人生の主人公である「わたし」に関心を向けて何が悪いのか?
 
それに対する哲学者の答えはこうである。(Qページをめくる前にまだ「嫌われる勇気」を読んでない方に答えを想像していただければと思います
 
「「わたし」は人生の主人公でありながら、あくまでも共同体の一員であり、全体の一部」
 
どうして、このようにことさら「共同体の一員である」と意識しなければならないのか。それは、共同体感覚の一つである「所属感」(これを人間は基本的な欲求として持っている)はただそこにいるだけで得られるものではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えて、積極的にコミットメントしなければ得られないものだからである。ここで言うコミットメントとは、人生の課題に立ち向かうことである。
 
Qさて、いよいよややこしくなってきました。どうして人生の課題という個人の課題にコミットすることが、共同体感覚を得る方略となるのだろうか?具体的にどうすればいいのだろうか?
 
この疑問に答える鍵は「横の関係」である。課題の分離に話を戻して考えてみよう。課題の分離とは「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない」ことであった。どうして他者の課題に介入してしまうのか?それは他者を「縦の関係」で見ているからである。つまり、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまうのである。相手をのぞましい方向へ操作しようとしているのだ(叱ることも褒めることも介入であり、操作である)。では、介入ではなく、どう他者と関わるのか。哲学者は「介入にならない「援助」をする必要があります」と答える。こうした横の関係に基づく援助の事を、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼ぶ。褒められること(あるいは𠮟られない事)が目的になってしまうと、結局は他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになってしまう。それは「自分には能力がない」という信念を形成していくことに繋がる。
 
Q確かに、勇気づけされた者は勇気を獲得し、その共同体に所属している感覚をはぐくむだろう。しかし、「わたし」がどう人生の課題に取り組めば所属感が形成されていくのか、そこがまだ述べられていない。「わたし」は「わたし」をどう勇気づければよいのか?いつの間にか、「わたし」の話が「あなた」の話へすり替わってはいないだろうか?
 

誰かの役に立つとは
誰かの役に立ててこそ、自らの価値を実感できる。この実感が勇気になる。ここまでの議論を青年は理解した。しかし、それを認めてしまうと誰かの役に立てない「赤ん坊、そして寝たきりになった老人や病人たちは、生きる価値すらないことになってしまう」と青年は哲学者に反論する。哲学者は「ここに存在しているだけで、価値がある」として青年の主張を明確に否定する。他者のことを「なにをしたか」という「行為のレベル」ではなく、そこに存在していることそれ自体を喜び、感謝する「存在のレベル」で見ていくのである。確かにこの主張には偽善の雰囲気がある。しかし、アドラーは「他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」であるという。他の誰も他者を「存在のレベル」で見ていないとしても、あなたは他者を「存在のレベル」でみなければならない。
だが、青年はこうして生きていても自分に価値があるとはどうしても思えない。自分の仕事は誰か、あるいは機械と交換可能な仕事であり、両親には出来の悪い弟だと軽んじられてきたからである。それに対する哲学者の答えはまたしてもシンプルであった。「まずは他者との間に、一つでもいいから横の関係を築いていくこと」。それが出来ていないために、今は未だ自分に自信が持てず、価値を感じないのである。
 
Q先ほどの疑問、「わたし」がどう人生の課題に取り組めば所属感が形成されるのか?は「まずは他者との間に、一つでもいいから横の関係を築いていくこと」が答えになるのだろうか?だとしたら、仕事の課題、交友の課題、愛の課題で「他者との間に横の関係を築く」とはどういうことを指すのであろうか?

一カ月後、青年はまた哲学者のもとへ赴いた。そこで初めに哲学者へ投げかけた疑問は、横の関係が築けないのは、自分に自信がないからである。自信がないから自分をありのままにさらしてしまうと、「笑われるのではないか?」などと言ったように、自分を意識してしまう、つまり「自己への執着」をしてしまうのである、というものであった。つまり、横の関係が築けないから自信がないのではなく、自信がないから横の関係が築けないのだと青年は主張したいのである。これは勇気以前の問題のように青年には思えた。この疑問に答える際、哲学者はまた新たなキーワード、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」を持ちだした。
 

「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」
「自己受容」とは、欠点があるのなら欠点がある存在としてありのままを受け入れ、今与えられたものをどう使うか、という発想である。変えることができないものは受け入れ、変えられるものは変えていく。これは「自己肯定」とは違う。ここを勘違いしてはいけない。
「他者信頼」とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないことである。確かに無条件で信じ続けていたら裏切られる事もあるかもしれない。しかし、なお信じ続ける相手に対し、他者は背信行為を働かせ続けることが出来るだろうか?きっと至難の業である。そもそも、裏切るか裏切らないかを決めるのは相手の課題であって、自分の課題ではない。だが、勘違いしてはいけないのは、あくまでも「他者信頼」は横の関係を築いていくための「手段」であるということ。もし、その関係を断ち切りたいと思うなら、そうしても構わない。断ち切るかどうかは自分の課題だからである。他者に信頼を寄せることは、すなわち他者を仲間だとみなす事に繋がる。
このように他者を仲間だとみなす事が出来ると、そこに「ここに居てもいいんだ」と思えるような共同体を見出す事が出来る。しかし、そこから所属感を得るためには、第三のキーワード、「他者貢献」が求められる。
「他者貢献」とは、「わたしは誰かの役に立っている」ことを実感するためになされることである。その卑近な例が仕事である。
つまり、自己肯定ではなく、自己を受容し、ありのままでいる自分を受け入れる。そして他者もその自分を受け入れてくれると信頼し、そしてその他者のために、自分らしく自分の出来る範囲で貢献していく。こうすることで「自己の執着」から脱することが出来る。
 
 
勇気がないのは誰のせい?
 ここまでの議論で青年は自己受容や他者信頼に踏み出す勇気が自分にはないことを素直に認めた(つまり、実際劣っているのだからしょうがない。勇気があるなしの問題じゃない、と思っていたが、劣っているのを受容することができていなかった、受容するには勇気が必要だった、やはり勇気の問題だった、ということを認めたということ)。しかし、「それはほんとうに「わたし」だけのせいでしょうか?そうではなく、わたしを理不尽に責め立て、攻撃してくる他者にも問題があるのではないでしょうか?」と哲学者に再び食ってかかる。この反論に哲学者は一部肯定する。「たしかに、世の中は善人ばかりではありません」と。攻撃してくる他者にも問題があるにはある。
しかし、仮に攻撃してくる者がいたとして、それはあくまでも一部の人間にすぎない。10人いれば1人は「わたし」を嫌う。しかし、その他の9人には親友になれる人も、そのどちらでもない人も含まれる。「わたし」を攻撃するか否かは相手の課題であって、その相手にフォーカスをあてるか、それともその他の9人にフォーカスをあてるのかは「わたし」の課題である。そんな自分を嫌う1人に執着しなければならない理由などどこにもなく、こちらから関係を切ってしまっても構わない。そのたった1人のことで世界全体を評価する態度は「人生の調和」を欠いたライフスタイルであると言える。
 
Q哲学者は「ここに存在しているだけで、価値がある」のだから、他者のことを「行為のレベル」ではなく「存在のレベル」で見ていきましょうという。しかし同時に「(吃音を笑うような)態度をとる愚かな人間など、こちらから関係を切ってしまってもかまわない」という。これは「行為のレベル」で他者との関係を切るか切らないかの基準を設定している事にはならないのだろうか?

このように、行為のレベルで受け入れるか、それとも存在のレベルで受け入れるか、これはまさに「幸せになる勇気」に関わってくる問題である。もし存在のレベルで他者、そして自分を受け入れる事ができたとしたら「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」をもつことができ、それで幸福になれるからである。なぜなら、存在のレベルで考えれば人はだれでも役に立っているからである。
(つまり、先ほどのQの答えは「「わたし」の課題をこなしても貢献感が得られないとき、関係を切るかどうかを「わたし」の課題として選択する。ゆえに、「行為のレベル」で見ているわけではない」ということになるだろうか。相手が何をしようかしまいかは、「自分が貢献感を持てるかどうか」を判断するさいのきっかけであり、それ自体が判断基準ではないのかもしれない)。共同体感覚さえあれば、他者からの承認がなくとも、肯定感を得ることができる。「わたしは誰かの役に立っている」とわたしが実感できればそれでいいのだから。
 

ダンス・ダンス・ダンス
 しかし、青年はやはりこの部分が腑に落ちない。人間には他者からの承認を得たいという基本的な欲求がある。人は誰でも特別になりたいと思う。特別になって認められたいと思う。そう青年には思えるからである。だが、それに対し哲学者は「普通である勇気」を説く。もし、特別であることを望むのなら、その「特別」になるまでの自分は「仮のわたし」ということになってしまうからである。「普通である勇気」とは人生を死までの「線」として考えるのではなく、「点」の連続だと考えることで発揮される。今この瞬間をクルクルとダンスするように生き、「いま、ここ」が充実していればそれでいいのだ。今、ここを楽しみ、結果としてどこかに行きついているような生き方である。登山の例をあげるなら、登頂することだけが目的になっているような生き方が人生を「線」として考える生き方であり、極端な話、ヘリコプターで山頂に行くだけでも目的を果たしたことになるような生き方である。一方、人生を「点」として考えた生き方とは、登頂できなかったとしてもその過程を楽しむような生き方である。登山そのものが目的であるため、仮に登頂できなくとも、その登山は失敗ということにはならない。
 強烈なスポットライトが自分に当てられていたとしたら、最前列さえ見えないのと同様、「いま、ここ」を真剣に生きていれば、過去も未来も存在しない。過去にどんなことがあったかなど今の自分には関係がないし、未来がどうであるかなど今考える問題ではなくなる。「いま、ここ」を生きないことは「人生最大の嘘」なのである。「変わらない」という決心を辞め、新しいライフスタイルを選ぶか否かは「いま、ここ」で決めることが出来るのだ。「他者貢献」を一つの指標としているならば、どこに行くかわからないダンスを踊っていても、大きく迷うことはない。
 
Qあなたがした最近の他者貢献は?それによって共同体感覚、勇気は得られたか?最後にそういった日常に照らしあわせてアドラー心理学を考えてみたい。
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カテゴリ: [心理系オススメ図書]実践向け

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